Marathonに寄せて

*これはレビューではなく、茫漠とした一所見である。

BungieがActivision Blizzardと袂を分けて、Steamにその抱卵たるDestiny2を寄せる折、ちょうど私は原点とも言える作品、Marathonをプレーしていた。Haloシリーズを知っていても、その親たる本シリーズは知らない人も多いだろう。なぜなら、Marathonは94年、1995年にMarathon 2: Durandalは95年、最終作のMarathon Infinityは96年に発売されており、当時はまだ私すら洋ゲーの世界には足を踏み入れておらず、しかもMac用とあっては、いったい何人の日本人が発売時にプレーしていたのか不思議である。

なお現在は、3作品ともオープンソースエンジン“Aleph One”で無料公開されており、私もこれで遊んだ口である。いわば、HaloやDestinyから祖先がえりした形ではあるが、かの作品は、Marathonの延長上にあるゲームと放言してもあながち誤謬ではあるまい。

しかし嘆息を漏らさずにはいられない。日頃“00年代後半以来、おしなべてアクションゲームはカジュアル化して……”と不満顔であるが、その不満顔がオールドスクールをやると、これまた不満顔なのである。理不尽なトラップ、スイッチかテクスチャかわからぬグラフィック、迷路のようなマップ等々、不満点は両指では足りない要は、現代のゲームを嘲笑していた私も、知らぬ間にぬるま湯に慣らされていた。いや、ぬるま湯と評するのは失礼か。今日的なプレイヤーへの配慮と言うべきか。

同時期には、あの大御所たるDoomがいて、火を見るまでもなくあちらが有名で、また私もDoomの方に軍配を上げる凡下なのだが、Marathonとて負けてはいない。エイリアンの武器、無重力のふんわりとした挙動、味方AI、そしてハードSFとすら思えるストーリー、それらである。いちいち細かく言わないが、これらは全て以後の作品に引き継がれて、それゆえ延長上にあるゲームと放言した次第だ。

個人的には、Bungieは当時から一貫して今日作っているゲームが作りたかったんだなと感慨深くなった。ただし、皆さんに今更本シリーズをプレーしてとは言えない。今日と比べて、あまりにも稚拙、もとい原始的だからだ。不満点は先に列挙したが、特にテキストのストーリーをきちんと読破しないと、「俺は一体どこで何と戦っているんだ……?」と混乱することこの上ない。ちょいとムービーを挟む容量すらなかったあの時代、バッサリ話を切ったも当然のDoomがよしとするのか、テキストではあるがしっかりしたものを詰め込んだMarathonを甲とするのか、私には判断のしようがない。

「予想より売れなかったのは、お前の責任」と互いを詰り、吹雪地帯を巣立ったBungieである。そろそろ昔のように、違った作風のゲームもみて見たいと思うのは私だけだろうか。

追伸:こちらのブログは久しく更新が途絶えている。有益なゲーム関連の事柄は、全てGamingchildの方に寄せているので、今後もそうするだろう。この記事は無益と断じたのでこちらへ。

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